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姫路の銘菓『玉椿』の伊勢屋会長に誕生秘話聞いてきた!FM元気放送は9/1【インタビューの種】

投稿日:2017年8月30日 更新日:


姫路の種サポート記者ソウキチ
こんにちは 和菓子大好きソウキチです。毎月第一金曜日放送姫路のラジオ、FM元気「星 一生 ヒューマンストーリーズ」の取材で姫路の銘菓『玉椿』で有名な伊勢屋本店に伺いお話をお聞きしました。

「銘菓玉椿」を製造・販売する伊勢屋本店。

姫路の銘菓『玉椿』の会長さんにインタビュー!


みんなが知ってる姫路の銘菓『玉椿』。なぜ、こんなにも有名なのか。何が『玉椿』を銘菓たらしめているのか。そのストーリーをお聞ききしに西二階町にある伊勢屋本店へ姫山の金さんこと星一生さんといっしょに伺いました。

会長さんと娘さんに根掘り葉掘り聞いてみました!

伊勢屋本店の創業

こんにちわ!姫路の種記者でもあり、星一星のヒューマンストーリーズのメイン司会のソウキチです!よろしくお願いします!今日は伊勢屋さんの歴史についていろいろ聞かせていただきたいと思います!

はい!よろしくお願いします

現在、姫路城の近く西二階町に本店がありますが、この伊勢屋は、いつごろできたのでしょうか?

はい、江戸時代の初期、元禄時代にできたようです。
西暦でいえば、1700年ごろですから、今から数えると300年ほど前ということになりますね。

近頃は企業の寿命は30年だと言われたりしていますが、伊勢屋さんは300年以上の歴史があるんですね。

調べてみたら伊勢屋は兵庫県で一番古い菓子屋なんですけど、大阪でもそれほど古い御菓子屋さんはないみたいなんです。

そうなんですか。

転機

ところで、創業から百年ほど経った文化文政の時代。大きな転機が訪れました。

文化文政といえば、江戸幕府も終わりに近い時代ですね。

そうです、このころは、天変地異などが頻発して飢饉になったり、当時の支配者であった武士たちにとってはとても厳しい時代でした。

徳川幕府の財政は厳しく、姫路藩も同じようにお金のない状態で、借金は73万両。一説によると、3500億円に相当すると言われるほどの借金をかかえて破産直前の状態だったともいいます。

今の日本の状態に似ていますね。 会社でいえば、倒産寸前。 姫路も大変だったんですね。

河合寸翁


【現在姫路神社に奉られています】

この時代に姫路藩酒井家の筆頭家老である河合寸翁という人物がいました。
姫路生まれで、姫路育ちの人物です。

河合寸翁は『姫路藩の中興の祖』とよばれ、
固寧倉という非常用の食料備蓄倉庫を作って、飢饉の時には農民に無利息でお米を貸し出したり、
新田開発や、商業を発展させたりして、姫路藩の財政を再建させた名家老です。

茶人でもあり、御菓子にも造詣が深かったようです。

この時代の人物としては、二宮金次郎さん、二宮尊徳が有名ですが、姫路にも素晴らしい人物がいたんですね。

婚姻政策で財政再建

この河合寸翁は姫路藩の財政立て直しを命じられました。

河合寸翁は、新田開発でコメの生産量を増やしたり、様々なことをやったわけですが、なかなかうまくいかなかったようです。

当時、姫路は木綿の一大産地としてよく知られていたのですが、姫路の木綿は大阪商人を通して販売していたので買い叩かれて値段が下がっていました。

そこで、河合寸翁は姫路藩の財政を再建するための秘策を考えました。

どのような秘策だったんでしょうか。

当時の11代将軍、徳川家斉には、56人の子供がおり、女の子は26人おりました。

そして、その将軍の25番目の娘、喜代姫を酒井家に迎えるとで、当時、日本を治める権力者であった将軍家との直接の親戚になり、家の格を上げて特権を認めてもらうことにしました。

それはどのような特権を認めてもらったんですか。

当時、姫路藩は財政が苦しくて喜代姫を迎える十分な準備が出来なかったようです。

そこで、河合寸翁は江戸での姫路木綿の専売権を確保しました。

河合寸翁の上手な駆け引きで、徳川家は姫路藩が江戸で木綿を専売することを許します。

河合寸翁はやり手の政治家だったんですね。

その結果、姫路藩は、木綿を大阪商人を通さず、直接江戸に売ることができるようになりました。

姫路から江戸に運ばれた木綿は「玉川晒(たまがわざらし)」や「姫玉」と呼ばれて好評を博し、姫路藩に莫大な利益をもたらしました。

3500億円とも言われる莫大な借金を数年で返してしまったそうです。

現代でいえば、日本航空を立て直した稲盛和夫さんのような方なんですね。
潰れかかった姫路藩。それを見事な手腕で立て直した名家老がいたわけですね。
河合寸翁。知りませんでした。

河合寸翁が命名した「玉椿」

伊勢屋本店HPより 河合寸翁直筆の書

その河合寸翁が将軍の娘の喜代姫が姫路に輿入れする時に、伊勢屋の三代目 新右衛門に、江戸や京都に負けない御菓子を作ってこいということで、江戸に修行に行くよう命じました。

御菓子というと京都を思い浮かべてしまうのですが、京都ではなく江戸だったんですね。

江戸時代の後期で文化の中心が上方から江戸へ移っていたこともありますが、上生菓子は武士のお茶会でつかわれる御菓子なんです。
お茶は鎌倉時代に栄西が中国から持ち帰って以降、足利将軍の庇護のもと、武士階級に広まります。

安土桃山時代には織田信長が領地の代わりに、部下に名物茶器を与える「名物狩り」が行われたように、お茶は武家社会に欠かせないものだったんです。

お茶会の主役は武士だったんですか。

お茶会は、武士がお茶を飲みながら狭い茶室でいろんな交渉や密談をする場だったんです。

上生菓子も始まりは京都だったようですが、発展させたのは江戸の武士達なんです。

江戸時代中期に砂糖の生産が増え、今のような上生菓子をたくさん作れるようになったことも関係しているのかもしれません。

伊勢屋 新右衛門は、中でもひと際格式の高い、江戸城 将軍家御用達菓子司である金沢丹後大橡という菓子屋で修行をします。

将軍家の御用達ということは、まさに日本一のお店で修行されたんですね。

普通だったら、日本橋の将軍家の御用菓子の店に修行へは行けないと思いますが、将軍家と親戚になれたからこそ、そこへ修行に行く権利を与えられたんだと思います。

伊勢屋はそれまでも姫路藩の御用菓子ではあったんですが、江戸で一番の御菓子屋さんで修行したことによって技術が上がったと思います。

そして、江戸で学んだ当時最先端の技術で作られた御菓子が、色々あったと思うのですが、その中でも家老の河合寸翁さんが特に気に入って名前をつけたものが「玉椿」だということです。

「玉椿」の名前を命名したのは姫路藩の名家老、河合寸翁なんですね。
やはりそれは、特別な事だったんでしょうか。

藩の家老に名前をつけてもらった御菓子っていうのは、他にないんですね。

私の私見ではあるんですけど、

河合寸翁の一番の功績に関わった姫路藩の木綿「姫玉」の玉とか、玉のような将軍家の姫様とか、椿は徳川将軍家に関係が深い花だったと言われています。

二代将軍の徳川秀忠の代から平和な時代になって、花を愛でるということが広まったようです。
その中で徳川将軍家は特に椿が好きだったということで、一万坪の椿園などを造ったという記述もあります。
それが京都の公家にも広がり、民衆にも広がったという記述もあります。

そういうことで、将軍家の姫様をもらった事や、財政再建に貢献した木綿「姫玉」などの意味を込めてつけた名前かとも思うんですけど。

いずれにしても、将軍家のお姫様の婚礼に関わる事と、藩の家老が名前をつけたということで「玉椿」は語り継がれるような御菓子になったんだと思います。

茶席における和菓子の名前は季語や短歌、古典文学などにちなんだものが多く、江戸時代の武士にとっては必須の教養とされました。お客様の想像力をかきたてるようにつけられたご銘の響きに思いをはせ、その背景に漂う文化を堪能しながら、お菓子を頂くことも和菓子の醍醐味だと思います。

徳川家の喜代姫をお迎えするときに作った和菓子であり、姫路藩の財政を再建した名家老 河合寸翁が名前をつけたのが「銘菓玉椿」。

改めて、「玉椿」誕生の背景には姫路藩の奥の深い物語があったんですね。

幕末から明治維新

伊勢屋さんは姫路藩の御用菓子として、武士のお茶会で使う上菓子を作っていたそうですが、時代が幕末から明治維新へと進んで以降はどうされていたんですか。

はい、姫路藩の御用達でしたから、藩の後ろ盾を失って苦しい時期が続きます。
しかし、伊勢屋本店は暖簾を降ろすことなく商いを続けます。

「玉椿」も、上菓子ではありますが、明治時代に入ってからは一般にも売りに出すようになりました。
宮内庁の各宮家からも、度々お買い上げ頂いたりもしていました。

伊勢屋さんは藩の加護を失ってしまったわけですが、
そのおかげで「玉椿」が広く庶民にも手に届くものになったわけですね。

戦争で焦土と化す

その後、大正、昭和と時を経て、第二次世界大戦がありました。
空襲にあって姫路の街は廃墟となるわけですが、伊勢屋さんは大丈夫だったんでしょうか。

姫路市内は全焼しましたので、
伊勢屋本店があった西二階町も空襲で焼けてしまいました。
工場も燃えてしまい、大きな被害を受けました。

物資が統制経済ということで手に入らず、御菓子が作れない時期もありました。

関西行幸

お店が焼失、御菓子の材料も手に入らなくなってしまった。
伊勢屋本店、第二の危機ですが、そこからどうやって乗り越えて来られたのでしょうか?

戦争で街や工場が焼かれてしまいましたが、伊勢屋は御菓子を機械ではなく、手作りしていたため、いち早く再建することができたと考えています。

終戦から2年、昭和22年。敗戦後の日本を励ますため、天皇陛下が全国を回られました。

いわゆる「関西行幸」ですが、その時に姫路にも立ち寄られたようです。

その際に、兵庫県の命により伊勢屋本店の「玉椿」を陛下に献上する光栄にあずかりました。

これは大変に名誉なことでしたし、「玉椿」を全国に知らしめる、大きなきっかけになりました。

天皇陛下に献上したことで全国的にも有名になったんですね。

「玉椿」が兵庫県下で最初に「地方保存菓子」の指名を受ける

その後、昭和24年に「玉椿」が兵庫県下で最初に「地方保存菓子」の指名を受けました。
元禄時代から続いていることや姫路藩の御用菓子司という格式があったこともあったのではないかと思います。

この指名によって、御菓子を作るための材料が優先的に手に入るようになりまして、なんとか続けることができるようになりました。

姫路駅地下街に出店・積極的店舗展開

【出典:http://www.nihonkai.com/onokoho/28stn-hyogo-harima.html

JR 姫路駅、当時は国鉄姫路駅でしたが、昭和34年に駅ビル「民衆駅ビル」ができました。
その際、姫路駅周辺の地下が整備され、駅ビルの地下街ができました。
その頃は、東京や大阪に巨大な地下の商店街ができ始めたころで、話題になっていました。

昭和60年代の「いざなみ景気」と呼ばれる好景気の頃。
高度経済成長時代の目前で、日本経済が、立ち上がりつつあり、日本の景気が良くなってきたころですね。

今でこそ、JRの姫路駅前は、ピオレなどができて大変な 賑わいですが、その当時、駅ビル、駅地下といっても成功するか どうか色々と悩んだようです。

それを勇敢に決断して出店に踏み切ったのは、当時専務の山野晃の決断でした。

山野晃は、姫路生まれで姫路育ちでしたが、大学は関西学院大学でしたので、
阪急沿線のハイカラな場所で過ごしたこともありますし、お客様の心をしっかりと掴んでいたのでしょう。

当時の専務、山野晃さんが、先見の明のある英断をされたんですね。

そうですね。 この、姫路駅出店が大きく貢献しまして、売り上げが大いに伸びました。

以前は、姫路駅の地下にも改札がありまして、大勢の人が行き来しました。
その改札のすぐ前に伊勢屋本店があったものですから、土産物としての売り上げも多かったのです。

駅の改札を出てすぐ、ということは姫路の顔となるような場所に伊勢屋さんはあったんですね。

伊勢屋さんと言えば、姫路の西の、広畑にもお店がありますよね。

広畑店は昭和49年にオープンしました。
当時、新日本製鐵、今の新日鐵住金ですが、日本の経済成長 を支える製鉄所の近くにある広畑店は、新日鉄やその周辺の鉄関係の会社の方々に贔屓にしていただきました。

昭和49年と言いますと、1970年代。新日鉄が好調な頃ですね。
日本中から人が集まり、週末は街が人で溢れかえる程、賑やかだったそうですね。

出張に出られる人も多く、お土産として「玉椿」を御買上頂くことも多かったようです。

また、広畑店には便利な駐車場もあるので、今も車で来店されるお客様に親しまれています。

積極的な宣伝戦略

「玉椿」は他の御菓子とは別格というか、一つのブランドになっていますよね。
地元の人に玉椿の話をすると、必ず「銘菓玉椿」という答えが返ってきます。

地元で玉椿を知らない人はいないのではないでしょうか。
土産物としても、姫路のナンバーワンだと思うのですが、この知名度はどうやって築かれたのでしょうか?

一つは駅の地下街にあるお店が看板となっていました。
駅周辺に看板を出しましたし、市内を走るバスにも「玉椿」のプレートをつけました。
テレビも、サンテレビですが宣伝しました。
昔は時刻表を買う方も多かったのですが、時刻表の一番最後のページに伊勢屋本店の広告を1ページ丸々出していました。

今は、昔ほどでもないですが、店舗を拡張したときなど、時期をみて積極的な宣伝はしました。
おそらく、それが功を奏して、認知度が高まり、ブランドとなっていったのでしょう。

さらなる進化

200年も前に物語を持って造られた御菓子「玉椿」を今も姫路で頂けることは、とても幸せな事だと思うんですけれど、「玉椿」は当時のものがそのまま伝わっているのでしょうか。

大体は一緒ですが、原料を少し変えたりしています。

江戸時代の頃は今のように精製された砂糖はありませんでした。

当時は和三盆のような砂糖を使っており、現在は近代的な精糖技術によって結晶化された白ザラ糖やグラニュー糖を使っています。

また、衛生観念がずいぶん違いますので、昔に比べて遥かに衛生的になっています。

良い物を造るということは、良い原料を使うのが筋だと思います。

伝統の「とう」は、今は糸へんの統制の「統」ですけど、かつては「ともしび」の「灯」という字だったそうです。

「ともし火」を伝えるというのは、時代が変われば人も変わる。
昔はこうだったと言うよりも、今の時代に良いものを伝えるということだと思っています。

伝統というものは革新の連続によって成し得られるものだと思っています。

今の人が良いというものを造らなければ、伝統産業は廃れてしまう。
守らなければいけないけれども、でも、変わらなければいけない。

良いものを造るという気持ちを守っていかなければいけない。

できる限り良いものを造っていこう。世界に通用するスイーツを造れればと思っています。

 

ホームページリニューアル


公式HPのスクリーンショット

良いものを造る気持ちを守っていく。素晴らしいですね。
姫路の種を見ている方に何かメッセージがあればよろしくお願いします。

商品や店舗だけではなく、この度、ホームページもリニューアルしました。
スマホの時代を踏まえて、見やすい画面作りを心がけましたので、みなさんご覧になってください。

ローマ字で”iseyahonten(いせやほんてん)” 、iseyahonten.comで検索ください。
「玉椿」をはじめとした御菓子の取り扱い店舗の情報や、本日話にも出てきた姫路藩の名家老、河合寸翁さんをはじめとする姫路にゆかりのある人物のページもご用意しております。

ぜひ一度、「 iseyahonten.com 」で検索してください。
よろしくお願いします。

関連:伊勢屋本店HP 

まとめ


【2017−08−19 伊勢屋本店】

左から社長の山野浩さん、会長婦人、会長の山野昭彦さん、星さん、ソウキチです。とても豪華な方々に取材協力していただきました。皆さん姫路の歴史やお菓子にとても詳しくて、取材は盛り上がりとても貴重な体験をさせていただきました。 なおこの模様は9/1放送のFM元気 星 一生 ヒューマンストーリーズで会長さんと娘さん、そして僕、ソウキチの肉声が聞けます!

姫路の種サポート記者ソウキチ
ぜひ聞いてください↓

姫路の種の姫山の金こと星一生がプロデュースしソウキチがメインMCを務める、播磨で活躍する人をクローズアップするヒューマン企画番組

FM GENKI  79.3MHz
「星一生 ヒューマンストーリーズ」

毎月第一(金)
21:00〜21:30

FMゲンキをスマートフォンで聴こう!

 

以前、ブドウちゃんが出演した記事はこちら

ソウキチが司会をした記事:長谷川さん 宮田さん


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