江戸時代、姫路で一番の繁華街はちょっと意外な場所だった!?【今日の姫路城573日目】

今日の姫路城及び付近であったことをあれこれを毎日掲載していくコーナー。今日の姫路城

姫路の種副編集長ソウキチ
こんにちは姫路城下古道界隈をいくシリーズ!小学一年生にもわかるように姫路城を紐解いていくのを心がけたい、監修長のソウキチです。今日も路上のブドウちゃんと一緒にぶらり探索してきました!


ジュンク堂で買った姫路城下古道界隈姫路城下町ギルドの芳賀さんに教えてもらった「姫路城下うちまちものがたり」

船場川が運河だった頃の名残を訪ねてみた2日目


【撮影2017.09.08】↑写真はソウキチが大好きな「船場西ビル」と「船場東ビル」

前回に続いて今日も「うちまちものがたり」を見ながら船場川の名所を訪ねてみました。

「船場川船繋ぎ岩」


まずは、江戸時代のメインストリートだった西国街道を入ってすぐの所に「船場川船繋ぎ岩」が今でも残っています。


かつて、この岩は荷揚げ・積み荷をする船を繋ぐのに使われていたそうですが、現在は民家の庭石になっているそうです。

姫路藩の米蔵があった「(旧)大蔵前町」


城下町ギルドの先生 芳賀さんに教えていただいたところ、船が荷揚げ・荷積みをしていた船着場は「大蔵前公園」の北にあったそうです。


↑「大蔵前公園」はかつて牢屋あったそうで、幕末にここで処刑された志士を偲ぶ「姫路藩勤王志士終焉の地の碑」があります。

大蔵前公園の辺りは「大蔵」という姫路藩の米蔵が建ち並び、大正~昭和の頃は「大蔵前町」という地名だったそうです。

江戸時代は姫路一番の繁華街だった「福中町」


そして「大蔵前公園」のすぐ北、「船場川」と「西二階町」の間に「福中町」という地域があります。


【写真は姫路城の先生 T兵衛さんからいただいた明治末期の福中町商店街】

現在の「福中町」は静かな通りですが、かつては「船場川」と「西国街道」が重なる場所で、明治時代に姫路駅ができるまでは、この福中町界隈が姫路で一番の繁華街だったそうです!

おまけ


「車門跡」のすぐ前の船場川に「車橋」という橋がかかっているのですが・・


そこからず~っと西にある「元町」に「車橋の碑」があります。なぜ、船場川から離れた場所に石碑があるのかは謎?なんだそうです。

今日の姫路城


【撮影2017.09.07】
今日は「車門跡」からお城を見てみました。


【撮影2017.09.08】
ちょっと上からズーム!

まとめ

姫路の種副編集長ソウキチ
明治の初期まで姫路で一番の繁華街は「福中町」だったそうです。

立てられた理由が謎の「車門の碑」の場所を貼っておきます↓

[map lat=”34.835575″ lng=”134.681537″]緯度経度で指定[/map]

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